愛による全面受容と心の癒しへの道(90)

峯野龍弘牧師

第6章 アガペーによるフォローアップ ―神の嘉される8原則―

さて、以上で「アガペーによる全面受容とその軌跡」を辿り、心傷つき病んでしまっていた“ウルトラ良い子”たちの「自立への7ステップ」について記してきましたが、次に「アガペーによるフォローアップ」ということを記してみたいと思います。これは心傷つき病んでしまっている子供たちへのフォローアップではありません。そうではなく、ケアーに当たる両親や受容者に対するフォローアップです。なぜなら心傷つき病んでしまっていた“ウルトラ良い子たち”を癒すにあたって、気の遠くなるほどの長い年月や苦労を重ねてきた両親や受容者たちは、一向にはかばかしくは進まない彼らの癒されない現実に直面し、果たしてこれで良かったのか、もしかしたら間違っていたのではなかろうか、さもなければ神が自分たちを見捨てたのではなかろうかなどと疑いを抱き、あわや挫折しそうになったりすることがあるからです。そこでこうした危機に直面した両親や受容者の皆さんに、是非とも必要な慰めと励ましが、この「アガぺーによるフォローアップ」と言う項目なのです。より正確に表現するならば、「アガペーによる受容者のためのフォローアップ」と言うべきでしょう。この場合に小僕は、皆さんに「神に嘉される8原則」と言うことを提唱したいのです。いきなり宗教的な神懸ったことを言い出したと思わないでください。「神から見捨てられた」とさえ思う方々がおられるので、小僕はあえてそこに踏み込んで、いや決して「神から見捨てられてなどいない」、むしろここまで労苦し、自己犠牲をもあえて甘受しアガペーし続けてきた両親やすべての受容者たちこそ、「神に嘉された人々」で、神のみ心に適った最善の道を進んでこられた方々だということを申し上げたいのです。ですから決して挫けてはならないのです。アガペーによる全面受容の道を、なおも走り続けて欲しいのです。その道は正しく、必ず勝利することになるのです。そこで皆さんに更に申し上げたいことがあります。それは「神に嘉される8原則」とでも申し上げるべきで事柄です。この8原則に従ってかかる場合になおも忍耐強く受容し続けるならば、まさにそれは「神に嘉される」ことで、見事に神は報いて下さるに違いありません。それは法則なようなもので、以下に記す8つの原則を守ることをお奨めいたします。

第一原則
第一原則は、アガペーの源泉である神の存在とその全能の力を確信し、日々祈れということです。

こう申し上げるとあたかもキリスト者やいずれかの信仰者でなければならないかのよう思われるかもしれませんが、いや決してそうではありません。もちろんキリスト者やいずれかの信仰者であられれば、それに越したことはありません。なぜならこれらの方々は、すでにその信仰のゆえに人間の知恵や力を遥かに超えた全能なる神の存在を信じ、確信しておられるのですから、その信じている神に信頼し、自ら徒に疑いを抱いたり、また不安を覚えたりして、右往左往してはならないのです。信仰はまさにこのよう時のための信仰でもあるのですから。心傷つき病める人々のための癒しの業に携る受容者たちは、常に彼らに安心・安息を齎す存在でなければなりません。それなのに受容者自身が疑いや不安を抱き動揺しており、そのような不安げな暗い顔をしていると、癒しを必要としている彼らが折角ここまで回復しつつあったのに、彼らまでが心落ち着かず、再び不安の中に取り込まれてしまいます。受容者の安息こそ、癒される者の安息の堡塁です。そしてこの受容者の安息を保証する堅固な堡塁こそ、全能者の存在を信じ、全面的に神に信頼する信仰です。更にまたこのお方に寄り頼み祈り求める「祈り」こそ、その信頼と安息を深める最良の王道です。ですから日々祈る必要があるのです。

では特定の宗教を信奉していない方々にとっては、この第一の原則は無効もしくは不要なのでしょうか。いや断じてそうではありません。そもそも人間は本来、霊的・宗教的存在です。それが証拠に古来より如何なる民族・種族にも、たとえ他の部族・種族と触れ合うことがなかったどんな奥地に住む未開の原住民であっても、そこには固有の宗教があり、葬送の儀式が存在します。しかし、人間以外の如何に人間に近いとさえ言われてきた動物たちの間にも、宗教や葬儀は存在しませんでした。なぜなら彼らは断じてそのような霊的・宗教的存在としては創造されてはいなかったからです。ところが人間は違います。まさに人間の人間たる尊厳として、唯一人間だけは、霊的・宗教的な存在として創造されていたのです。ですから人間は生まれながらにして祈り心を有し、特定の神信仰を持たずとも、何か重要な場面で心改まって、慇懃に「心から~をお祈り申し上げております」などと挨拶することになるのです。その時、不思議と挨拶する側も、また挨拶を受ける側も心温まる思いを分かち合うことが出来るのです。わけても愛する者が亡くなった時、深い悲しみを覚えつつ、葬儀を営むのは、人間の本能的営みと呼びたいほど必然的な営みで、ここにこそ人間の人間たる所以があり、まさにそれは人間の固有の尊厳でもあります。

そこで愛するウルトラ良い子たちが、心傷つき深く病み苦悩している時、またその子供を受容し癒そうとして自ら労苦している時、もはやどうすることも出来ないほどの窮地に落ち込んだ時、そこで受容を断念したり放棄したりすることなく、目に見えざる大いなる御存在を覚えて、天を仰いで祈ると良いのです。その時にその大いなる御存在を意識すればするほど、不思議とその心の安息度は増し、不安が解消されます。のみならずその心ばかりではなく肉体も霊魂までもが、安らぐことを体験なさることでしょう。これこそが人間本来の霊的宗教体験とも言えましょう。すでに本書の冒頭の方で記しましたように、「アガペー」と言う愛の真理とその生命は、実にこの大いなる方(聖書でこのお方を「神」と呼んでいる)に淵源しています。

ともあれ宗教とか信仰とかを論じるまでもなく、人間であるがゆえにか かる場面で、思わず人間の知恵や力の限界を遥かに超えた大いなる存在を 仰ぎ見て祈る時、不思議と心と霊魂と肉体にまで平安と安息を受け継ぐこ とが出来るのです。この場合、その大いなる存在に対して信頼し、依存す る信頼度・依存度が大きければ大きいほど、平安と安息の度合いも大きく なります。そこでかくすることによって受容者の安息度を高めることによ って、心傷つき病んでしまった人々の心の平安を維持し続け、その癒しを 促進することが出来るのです。ですから、この第一原則が極めて重要であることがお分かりいただけたと思います。是非ともこの第一の原則を踏み 外さないよう、よくよくご注意くださいますように!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。

感謝、賞賛の言葉を豊かに注ぐ 自尊心の回復