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愛による全面受容と心の癒しへの道(126)

峯野龍弘牧師

第10章結び

そこで第六に、この「アガペーによる全面受容の癒しへの道」と言う真理・原理・法則は、如何なる人間も神の深い愛の御心の内にあって誕生し、たとえ先天的などんなハンディキャップをもって生れて来たとしても、本質的には何ら人間としての尊厳に目減りがあるわけではないと言う確信の上に築かれている論理です。もとよりのこと神が最善以外の何事もなさらず、また何ものをも創造されず、ましておや聖書が明記しているように人間は「神に似る者」(創世記1:26~27参照)として創造された尊い存在なのですから、誕生してきた人間は一人残らずすべて尊い価値ある存在以外の何ものでもなく、誰一人としてその尊厳性において遜色のある者はおりません。この点に関しては本文の最初からすでに強調してきましたが、今ひとたびこの終わりにおいても強調しておきたいと思います。ですからその一人一人に与えられた個性と人格は、どこまでも尊重され、絶対的に肯定されなければなりません。諸悪の根源は、すでにこれまたくどいほど論じてきたように「世俗的価値観」にあります。この「世俗的価値観」と言う悪しき枠組みの下で、お互いが人間評価をするところから、この本質的に最善以外ではない人間の尊厳や個性、人格が傷つけられ、抑圧され、更には否定されるまでに至ってしまったのです。ですからその「癒しの道」は、徹頭徹尾その癒されなければならない一人一人の人間の尊厳、個性、人格をとことん尊重し、「絶対肯定」するところに、「不動の大前提」を置かなければなりません。この大前提の崩れたところでは、絶対に真の癒しは生み出されず、促進しません。その反対に、この大前提が崩れず、持続し、その上に固く立ち、「アガペーによる全面受容」をもってケアーに当たる時、癒されなければならない相手と必ず心が繋がり、その癒しが功を奏すると言って過言ではありません。これが筆者の確信です。

第七に、これは蛇足のようなことかもしれませんが、この「アガペーによる全面受容の癒しの道」は、その癒しの道に従事する両親はじめケアーに当たる関係者が、常により謙虚で真実な心と姿勢をもって、愛と祈りの内に事に当たらなければならない極めて大切な一筋の道であると言えましょう。と言うのは如何に、「この道を行くならば必ず癒しに辿り着くことが出来る」と確信したとしても、それが「“自分”はここまでアガペーしているのだから、子供は絶対に癒されないはずがない。だから“自分”には自信がある。“自分”は必ずやり遂げてみせる」と言うような強い自負心を抱くようになってしまったとするならば、それは「行き過ぎた確信」と言うもので、これはもはや「傲慢」に他なりません。この傲慢さが、癒されなければならない相手に対して、新たなストレスを与えるようにもなりかねません。またその反対に、一見より謙虚な心と姿勢に見えるかもしれませんが、ある方々は途上で我が子が心傷つき病んでしまったのは、自分が極度な世俗的価値観を押し付けてしまったからだと気付かされ、深く心から悔い改め、謙虚に相手に謝罪するまでは良かったのですが、それが今度は受容するのがこの「自己の罪責感から出た我が子に対する償いの業としての受容」と言う事になってしまうと、これまた「行き過ぎた罪責感」となり、これは謙虚・真実とは異質の「自己卑下と隷従」に脱してしまう危険を冒します。こうした場合が、しばしば「アガペーによる全面受容」とは似て非なるいわゆる「共依存」を生み出してしまうのです。ここには決して人間の本質と尊厳に深く根差した相互信頼は造成されず、本来あるべき美しい人間関係や人間性の構築は起こり得ないと言えましょう。

そこで最後の第八として、あえてこの一事をここに記して結びたいと思います。それは「祈り」と言う事です。「祈り」とは、人間が人間自身の力や知恵によってはどうすることもできない人生の重大事・重要事に対して、目に見えない人知を遥かに超えた聖なる大いなる存在に対して、その助けを求めて心からより頼む願いや叫び、また感謝や讃美、時には会話を意味しています。「愛は祈り、祈りは愛を深める」と言われていますが、愛する者が死に直面したり、重大な事柄で悩んでいる時、自分たちの知恵や力では如何ともし難い時に、お互いは思わずその愛が祈り心に変わることを、体験したことがないでしょうか。そして祈るうちに相互の内に働き、相互の間に通う愛がより深くなるのを覚えたことがなかったでしょうか。

ましておや本書で学んできた「アガぺ—」と言う究極の愛は、もとより聖書が指し示している天地万物の創造者にして人間の創造者でもある神の本質である聖なる愛に基づくものでもあるので、「愛と祈り」は、深い関わりの中に置かれています。そして「祈り」は、単に人間の願望・欲求を満たすための大いなる方に対する嘆願と言うような、ご利益主義的な祈願とは無縁のものです。「祈り」は、愛と真実と謙遜な心より発せられた、大いなる方の聖き御心に適った無欲な「聖願」です。このような「聖願」であってこそ、人の心、とりわけ心傷つき病めるウルトラ良い子の心を動かし、大いなる方の御心に適い人知を遥かに超えた奇跡とさえ思われる不思議な良き結果に巡り合うことが出来るのです。これこそ愛と真実と謙遜をもって人生を生き抜く聖き人間だけが見いだすことの出来る人生の秘儀・奥義、さらには人生の至高の境地・醍醐味とでも言えましょう。そうです、「アガペーによる全面受容の癒しの道(法則)」に従事する者のためには、究極この「祈り」が不可欠と言えましょう。最後の今一度申し上げましょう。

「愛(アガペー)は祈り、祈りは愛(アガペー)を深める!」と。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。